「年末年始の上海で感じた ジャパンクオリティー」【知見メール190号】

年末年始の上海で感じた ジャパンクオリティー

皆様、ジェイックの知見寺(ちけんじ)でございます。

 

 

 

 

新年、あけましておめでとうございます。

今年もお付き合いの程宜しくお願い申し上げます。

 

 

今回の年末年始は、初めて海外で過ごしました。

リゾートではなく、上海です。

中国のお休みは、元旦だけです。

 

それでも、上海で一緒に仕事をしている

メンバーと年越しをしようと思い、

妻に上海にきてもらいました。

キッチン付きのサービスアパートメントを借りて、

大みそかには、ちょっとしたご馳走と年越しそばを食べ、

元旦にはお雑煮を食べました。

そばは新潟・小嶋屋の乾麺、

もちは新潟でついてもらったものです。

美味しかったですね。

 

テレビは紅白をみたり、ニューイヤー駅伝をみたりしていましたので、

海外の感覚があまりありませんでした。

 

 

ただ、料理をしていた妻は日本でないことを実感していたようです。

例えば、カルフールで買ってきたラップです。

 

先ず、ラップの箱を開けると、

ラップを引き出すための細いリード紙が入っていません。

ラップの先頭を引き出すのに苦労しました。

今度、ラップをかけて切ろうとすると、

上手く切れないんですね。

次に、ラップをかけて電子レンジに入れると、

途中で「ボン!」といって破れてしまい、

電子レンジ内に料理が飛び散ってしまいました。

 

ジャパンクオリティーの高さに、

妻がいろんなところで感心していました。

 

 

ただ、妻が凄いよね!と感心するのも比較対象があったからです。

この話しを中国人の女性にしたところ、

「ふ~ん」という感じでした。

それが当たり前だから、特に不便に感じていません。

日本のラップの素晴らしさを説明しても、

使ったことがないので実感できないようでした。

 

 

私は、昨年114日間、上海に滞在しました。

そのおかげで、日本の良いところ、逆に弱点なところを、

より実感できたように思います。

異文化、もっと平たく言うと

自分にとって非日常空間に身をおくことは、

自分の認識をより鮮明にするために、とても役立つと思います。

 

 

 

さて、今回は、妻を地下鉄2号線で迎えに行った、

中山公園から浦東空港までの1時間半で

読んだ本をご紹介したいと思います。

 

皆さんは、日本はなんで

日本と呼称するようになったのかご存知ですか?

 

『「日ノ本」というのは

「あるところから見て東方に位置するところ」ということです。

「あるところ」とはもちろん中国です。

「日本」というのは「中国から見て東にある国」ということです。』

内田樹著「日本辺境論」より。

 

 

「日本辺境論」の表紙を開いたところには、

次のように本の内容が紹介されています。

 

日本人とは辺境人である

-「日本人とは何ものか」という大きな問いに、

著者は正面から答える。

常にどこかに「世界の中心」を必要とする辺境の民、

それが日本人なのだ、と。

日露戦争から太平洋戦争までは、

辺境人が自らの特性を忘れた特異な時期だった。

丸山眞男、澤庵、武士道から水戸黄門、養老孟司、マンガまで、

多様なテーマを自在に扱いつつ日本を論じる。

読み出したら止らない。

 

255ページのこの本の中で、

一番考えさせられた部分を抜粋します。

 

――――――――――――――――――――――――

 

張良というのは、劉邦の股肱の臣として

漢の建国に功績のあった武人です。

秦の始皇帝の暗殺に失敗して亡命中に、

黄石公という老人に出会い、

太公望の兵法を教授してもらうことになります。

 

ところが、老人は何も教えてくれない。

 

ある日、路上で出会うと、馬上の黄石公が

左足に履いていた沓を落とす。

「いかに張良、あの沓を取って履かせよ」と言われて

張良はしぶしぶ沓を拾って履かせる。

 

また別の日に路上で出会う。

今度は両足の沓をばらばらと落とす。

「取って履かせよ」と言われて、張良またもむっとするのですが、

沓を拾って履かせた瞬間に

「心解けて」兵法奥義を会得する、というお話です。

 

それだけ。不思議な話です。

けれども古人はここに学びの原理が凝縮されていると考えました。

 

(中略)

 

教訓を一言で言えば、師が弟子に教えるのは、

「コンテンツ」ではなくて「マナー」だということです。

 

張良は黄石公に二度会います。

黄石公は一度目は左の沓を落とし、二度目は両方の沓を落とす。

そのときに、張良はこれを「メッセージ」だと考えました。

一度だけなら、ただの偶然かもしれない。

でも、二度続いた以上、

「これは私に何かを伝えるためのメッセージだ」とふつうは考える。

そして、張良と黄石公の間には

「太公望の兵法の伝授」以外の関係はないわけですから、

このメッセージは兵法極意にかかわるもの以外にありえない。

張良はそう推論します。

 

沓を落とすことによって黄石公は私に何を伝えようとしているのか。

張良はこう問いを立てました。

その瞬間に太公望の兵法極意は会得された。

 

瞬間的に会得できたということは、

「兵法極意」とは修行を重ねてこつこつと習得する類の

実体的な技術や知見ではないということです。

兵法極意とは

「あなたはそうすることによって私に何を伝えようとしているのか」

と師に向かって問うことそれ自体であった。

論理的にはそうなります。

 

「兵法極意」とは学ぶ構えのことである。

それが中世からさまざまの芸事の伝承において

繰り返し選好されてきたこの逸話の教訓だと私は思います。

 

「何を」学ぶかということには二次的な重要性しかない。

重要なのは「学び方」を学ぶことだからです。

 

――――――――――――――――――――――――

 

私は、社会人に対して教育サービスを提供する事業に携わっていますが、

 

『「学び方」を学ぶ』

 

を中心に据えた研修は提供していません。

教育の本質を指し示されたように思います。

 

 

あと一つ、記憶に残るフレーズは、

 

「問いを立てる」

 

 

この本に挟まっていた栞に、

松下幸之助さんの文章が書かれていました。

 

――――――――――――――――――――――――

 

学ぶ心さえあえば、万物すべてこれわが師である。

語らぬ石、流れる雲、つまりはこの広い宇宙、

この人間の長い歴史、

どんなに小さいことにでも

どんなに古いことにでも

宇宙の摂理、自然の理法がひそかに

脈づいているのである。

 

そしてまた、人間の尊い知恵と体験が

にじんでいるのである。これらのすべてに学びたい。

 

――――――――――――――――――――――――

 

この文章の「学ぶ」を「問いを立てる」に読み替えると、

より理解しやすいように感じました。

 

 

日本は今週末3連休です。

お時間が取れるようでしたら、

「日本辺境論」ご一読をお薦めします。

 

 

 

 

皆さんにとりまして、2014年が素晴らしい学びの1年になる、

そんなお役に少しでも立つことを目指してメールを書かせていただきます。

重ねてになりますが、今年もどうぞ宜しくお願い致します。

著者情報

知見寺 直樹

株式会社ジェイック 執行役員|上海杰意可邁伊茲企業管理咨詢有限公司 副董事長

知見寺 直樹

東北大学を卒業後、大手コンサルティング会社へ入社。その後、株式会社エフアンドエム副本部長、チャレンジャー・グレイ・クリスマス常務取締役等を経て、2009年ジェイック常務取締役に就任。総経理として上海法人(上海杰意可邁伊茲企業管理咨詢有限公司 )の立ち上げ等を経て、現在はHumanResourceおよび事業開発を担当する。

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